長崎5ード・ロさまセリが気になって、女子高時代に思いを馳せて。

長崎5ード・ロさまセリが気になって、女子高時代に思いを馳せて。

「旧出津救助院」に行くまでも、坂、坂、坂。
あいかわらず、わたしの他に人がいない。

ちょっとした光景が愛おしい。

旧出津救助院の屋根が見えてきた。
す、すてき!!!
瓦に十字が入っている。

想像していた以上にとてもかわいらしい建物だ。

「こんにちは!」
入場料は400円。昔、薬局として使っていた建物が受付になっている。
入場券を受け取るときに「ありがとうございます」と一言声をかけると、
「こちらこそ、わざわざここまでありがとうございます。
どちらからいらしたの?」

東京だと伝えると、あらあらそんなに遠くから。
とても嬉しいわとおしゃってくださった。

中に入ると大阪弁のおじちゃんが案内をしてくれた。

旧出津救助院とは、フランスからの宣教師ド・ロ神父が建設をした施設。

明治12年(1879)外海地方に赴任した、フランス人宣教師マルコ・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)神父は地域住民を窮状から救うために、農業指導、漁業指導、医療事業、教育事業など様々な活 動をいたしましたが、旧出津救助院も、その一つで、女性のための授産施設として明治16年(1883)に創設されました。

旧出津救助院の施設群の中心となる授産場では、綿織物の製糸から製織、染色、そうめんやパンの製造、醤油等の醸造が行われていました。

1879年(明治12年)、外海地区の主任司祭となった宣教師ド・ロ神父は、「陸の孤 島」と呼ばれ、田畑にも恵まれない貧しい自然環境の中、長期のキリシタン弾圧にも耐えながら、信仰だけを頼りに貧しい暮らしをしていた人々を見て、「魂の 救済だけでなく、その魂が宿る人間の肉体、生活の救済が必要」と痛感。まず出津に教会堂を建て、教会を中心とした村づくりを始め、1883年(明治16 年)に救助院を創設。多彩な事業を授けることによって、外海の人々に「自立して生きる力」を与えました。(出典:旧出津救助院公式WEBサイト

ド・ロ神父は、フランスの知恵をたくさん外海の女性に伝えました。

授産場1F

ここでは、そうめんを作ったり、かんころもちを作ったり。
ジャガイモやクレソンの栽培もしていたんだって!
クレソンはド・ロさまセリという愛称で親しまれているのだとか。ステキ。

これはド・ロ神父が日々書いていた、記録簿。
食事の内容とか、その日の作業内容とか、販売の記録とかがびっしり。
とても几帳面な方だったというのがよく伝わってきます。

よくよく見ると英語じゃなくてローマ字なのよ!おもしろいーーー。

この棚に記されている数字は、ド・ロ神父の直筆なんだって。
あったかい字だよね^^

2階は実際に女性が寝泊り寝泊りをしたり、信仰をしたり、読み書きそろばんを学んでいた空間だという。ここから先の説明は大阪弁のおじちゃんからシスターにバトンタッチ。

わたしは高校時代、ミッションスクールに通っていた。
カトリックの学校。
理事長は『置かれた場所で咲きなさい』の著者である渡辺和子さんだ。
朝礼と終礼には主に祈りを捧げ、併設されているチャペルでは日曜礼拝が行われていた
無声劇、タブローで、わたしはヨセフを演じたなあ。

正直、わたしはこの高校が苦手だった。もちろん、高校時代宝物なのは大前提よ。
まずは、女子校という文化に馴染めなかった。入学式の日、先輩たちが校歌を合唱してくれたのだけど、女性の声ばかりでキンキンする・・・と思ってしまった。

次にカトリックというところだ。わたしはクリスチャンではない。むしろお寺が大好きで、日々、祖父の仏前で手を合わせるのが日課であるし、仏壇の中に灯すろうそくの炎を見つめるのがすごく好きだった。そんなわたしがなぜ、毎朝、毎夕、主に祈りを捧げなくてはいかないのか。はじめは、お祈りの時間に手を合わせることにとても抵抗を覚えた。

あとは服装。髪が短いこと、靴下が短いこと、スカートが短いことで、よく先生に怒られた。「あなたは、もっと女性らしくありなさい」。この言葉を言われるたびに本当に嫌な気持ちになった。

はじめは、ああ、、、3年もここにいるの?どうすればいいのわたし、、、聖書をひらけば何か書いてあるかしら?と聖書を読んでみたけれど、当時、無知すぎたわたしにとって、わたしにとっての言葉に出会うことができなかった。

だけど、だんだんと祈ることに対しての考えが変わっていた。
放課後に1人でチャペルを訪れてぼーっとすることが多くなった。
チャペルと図書館が同じ建物だったから、勉強して疲れたらぼーっとしてみるの繰り返しだった。そのうちにチャペルがだんだんと落ち着く場所になってきて、朝夕の祈りで手を合わせること、主への祈りを口にすることへの抵抗が減っていった。大きなきっかけはないと思う。本当に徐々にだった。

大学に入ってから、宗教学の授業を取り、ここで宗教のおもしろさに気付かされた。
高校では祈りを体感し、大学では学問としての宗教を知った。
それからというもの、わたしは「宗教」と「祈り」にとても興味を持つようになった。
我が家には、コーランもあるし、インドの神様もたくさんいる。
信仰をしているわけではないのだけれど。

シスターがオルガンを弾いてくれるという。
このオルガン、鍵盤を色々いじると、和音になったり、調律が変わったりしておもしろいの。
ド・ロ神父が、明治22(1889)~23(1890)年頃に購入し、毎日のミサで使われていたのだって。祈りの音ね。

シスターがそっと鍵盤を叩くと、あたたかくて美しい音が出津救助院に響いた。
ここで、何人の女性が祈りを捧げてきたのだろうか。
オルガンのとは時を超えて、わたしに女性たちの祈りを感じさせてくれた。

旧出津救助院のオルガン
(※音出るよ)

その後、また坂を登り、出津教会をめざす。
石畳がすごく素敵。両脇にはおいしそうな野菜の畑が広がっていた。

出津教会もド・ロ神父の設計だ。

かつて外海一帯には5,000人近い信者がいたが、江戸幕府の禁教政策により、大村藩は厳しく取り締まった。しかし、外海は大村城下から遠く、また出津(しつ)や黒崎などは比較的寛容な佐賀藩の飛び地も混じり、多くの潜伏キリシタンが存在した。1865年3月の信徒発見から半年後、プティジャン神父が船で密かに出津を訪れ、信者と面会した。当時は禁教下で迫害があったが、200戸がカトリックに復帰する。1879年にド・ロ神父が出津に赴任し、信者と力をあわせ1882年に出津教会を完成させる。強い海風に耐えられるように屋根を低くした木造平屋で、漆喰(しっくい)の白い外壁は山の緑に映え、清楚なたたずまいが美しい。外国人神父の設計による初期教会として、2011年に国の重要文化財に指定された。

今は、復活祭の前のため、一番静寂な時期だと、教会の案内人の方が教えてくれた。
復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から、復活祭前日の土曜日(聖土曜日)までの期間は四旬節と呼ばれ、伝統的に食事の節制と祝宴の自粛されるの。
祭壇には紫の布がかけられている。紫は「悔い改め」を表す色。

色々話を伺っていると、もう1人、男性がいらっしゃった。
なんでもカトリック教徒の方で、わたしと同じく、外海の教会を巡っていらっしゃるらしい。

「あなたはどちらから?」
「東京です」

「それはそれは、また遠くから。東京にはモダンな教会がたくさんあるかもしれないけれど、日本の教会は決して装飾が派手だったり、荘厳だったりはしないけれど、温かみがあったいいよね。この質素さがとても美しい」
と男性。

確かに。出津教会も、質素だけどとても美しかった。

「このあとは、どうするね?」
と案内人の方。大野教会にも行きたいから、タクシーを予約したと伝えると、俺の車で連れてってやったのにーと。タイミングが悪かった。そのお気持ちに感謝。

ほどなくしてタクシーが迎えにきた。
バスでもいけるのだけど、本数もなく、確実に行きたかったので、タクシーを予約していたの。
1時間で4000円。

なんでまた、外海なんかにきたね?
長崎もはじめてなのか。ちゃんぽんは食べた?
あっちが五島だよ。五島は行くのか?いいところだよ。

などなど大野教会に着くまでにドライバーの方とたくさん話した。

長崎の人はなんだか人懐っこい。
どなたと話しても話が弾んで楽しい。

タクシーから見える海も美しかった。

つづく