大地の芸術祭とわたし【1】

大地の芸術祭とわたし【1】

大地の芸術祭も今年で5回目。本当に大きくなったなと実感をした。ワタシと大地の芸術祭の関係を振り返ってみようと思う。きっとこのお祭りはワタシに大きな影響を与えてくれたから。ワタシが始めて大地の芸術祭に足を運んだのは中学1年生の頃。若干12歳なワタシ。そう、それは大地の芸術祭の第1回目だった。

 生まれた頃からと言っても過言では無いくらい、両親はワタシを美術館やら博物館に連れて行ってくれた。未知との遭遇の連続で、美術館に行くことが大好きだった。子どもにとっては少し高い位置に展示された絵を背伸びしてみるのが、なんだか大人だと思っていた。見るだけではなくて作ることも描くことも大好きだった。見る、作るどちらが先に好きになった行為かは分からない。将来の夢はピカソだった。嘘ではない。夜な夜なピカソの絵をマネて絵を描きまくっていた。台風の日に傘をさせばメリーポピンズにもなれると信じていた子どもでもあった。結局、お気に入りの虹色の傘が壊れただけ。メリーポピンズになる夢は砂糖に包んで飲み込んだ。学校が嫌いだった。学校をさぼって信濃川沿いで読書に耽ていた。ディズニーランドに行ってきたことがなんかステータスみたいな周りの話についていけなかった。とにかく、蝸牛の殻の中に住んでいるような、うまく外とコネクトできないような、そんな子どもだった。

ワタシの美術に対する態度や考えが変わったのは「大地の芸術祭」と「会田誠」だと思う。中学1年生の夏休み。ミレニアムなんて言ったっけ。父の運転で新潟の里山に向かった。何やら、スタンプラリーしながらアート作品を巡るらしいと、それを「大地の芸術祭」と呼ぶらしいと、それくらいしか知らなかったが、ワタシにとってその里山のアートのお祭は大きな衝撃となった。ランドアートなんていう言葉はもちろん知らなかった。それに美術館でお利口になって鑑賞することしか知らなかった。それがどういうことだろう、作品は外にあるし、なんだかよくわかんないものばかり。ゲンダイアート?はてながいっぱいとびながらも楽しくて仕方なかった。山道をくねくね進む中で、作品をみつけては車を止めて、スタンプを押し、山の空気を思いきり吸う。美術館ではなくても美術は成り立つのだとミレニアム中学生は実感した。作品も山の空気を吸っているからか、活き活きして見えたのは気のせいではないだろう。外に飛び出すことが重要だと、蝸牛の殻を捨てようかと思った。

里山全体が美術館とは言いたくなかった。そう言ってしまえば早いのだけれど、だって美術館ではないのだもの。大地の芸術祭に美術館という形容をつけてしまうことで、縮こまってしまいそうでいやだった。もっとこの爽快感と壮大感を言い表せはしないかと思考した。脱美術館。やはり蝸牛の殻からも脱しなければいけないのではないかと、いや美術館より蝸牛の殻のほうが螺旋であるがゆえにどことなく無限性を感じることができるではないか。

大地の芸術祭はトリエンナーレ。誰が言い出すわけでもなく、これは家族行事となった。3年に一度、家族そろって第5回目まで、今のところ皆勤賞である。